ヘイスティングスの戦い

 5世紀から11世紀にかけて、デーン人は英国とフランス両方へ南下し定着していった。そしてフランスについたバイキングはそこに馴染み、文化を吸収し、年月とともに爆発的な人口増加と領土と勢力の拡大が起こった。かれらはフランスのノースマンまたはノーマン(ノルマン)と呼ばれた。従って、11世紀にヘイスティングスで戦うことになるのは、ともにデーニッシュの変化した末裔同士であるともいえる。

 エドワード懺悔王(1042−1066)の両親とは、デーン人の王スウェイン・フォークベアドにイングランドを奪われたエセルレッド2世とノルマンディ公の娘エマであった。そしてスウェインの息子であるイングランドとデンマークの所有者クヌート王は、エセルレッドの死後、エマを妻にした。
 エセルレッドにはエマではなくアルフィーフという奥方もおり、結局、2通りの血統が残ることとなった。これらの婚姻の目的は、アングロサクソン、デンマークという一大帝国をより強固な絆で結びつけることである。

 英国王エドワードは息子という後継者を残していないが、ノルマンディ生まれでフランス風をこよなく愛し、英国の王としてはあまりにノルマンディ的な態度をとった。それは、思想・文化・とりまきの重臣に至るまで、ノルマンそのものを注ぎ込んだという点においてである。
 ハロルドは、ウェセックス伯でイングランド南西部で強大な力を持つゴドウィンの息子である。そしてゴドウィンの娘が形式上エドワードと結婚したので、ハロルドは王の義理の兄弟というわけだった。だが、ハロルドの血統は寧ろ、土着のセイン(土地保有自由民。後に世襲貴族に転化)から力を得たゴドウィンよりも、デンマーク王家の血を引く母方あっての高貴な血筋だったのであり、しかも貴族たちはハロルドを王族たらしめているものは素質や人柄ではなく、ただ血統だけであるという見方をしていた。
 ハロルドはしかし、イングランド南部では確固とした地位を築き、エドワードが没したとき、後継者を決定する権限を持っていたウィタン(賢人会議)は、次の王として、幼少だがもっとも近い相続者エドガーではなく、ハロルドに王冠を授けたのであった。
 一方、エマの末裔はノルマンディにも育ちつつあった。彼の名はギヨーム。ノルマンディ公の嫡子ではなく庶子であるがそのことはまるで重要ではなかった。彼は父のあとを継ぎ、教皇と大司教の後ろ盾があり、庇護者にとって王位を脅かす存在に見えるほどに、政治的・軍事的に力を蓄えていた。
 彼がイングランドを望んだ理由は、エマの血統を辿ればハロルドよりも王位に近い、したがって権利があるということ、あるいはハロルドに一度臣下の誓約をさせた約束があること、エドワードは彼こそ後継者に指名したはずだということ、なんとでも言えた。そうして、ノルマンディから標的として狙うとき、ハロルドのイングランドは王権も脆弱な混乱した国家でしかなく、版図拡大の野望に燃える征服者には恰好の獲物と見えたであろう。
 ギヨームについている宗教的な背景は、この企みを神聖な宗教戦争に変えるのにひと役買った。伝統的な封建制も活用され、領土を与える約束がちらついていたのだが、これらの結果としてギヨームの配下の領主たちは、進んで自らの財を投じて物資を整え、彼の下へはせ参じた。そしてブルターニュ、フランドル、ノルマンの兵士がギヨームのもとでひたすら軍事訓練を受けていたのである。
 そしてギヨームは、9月に好ましい風が吹く機会をとらえた。彼は大船団に馬と武器と兵士らを載せてドーヴァーを渡ったが、船を寄せたのはヘイスティングスの西に位置するペヴェンシーという入り江であり、その周辺は嵐を避けるのに都合のいい地形をし、また集落もまばらだった。彼はここでも慎重に時間をかけ、船が満潮に導かれ、労せずして物資を下ろしながら上陸できることを計算していたのだ。

 このようなノルマンディからの敵にさらされていたとき、ハロルドはいまだ南部の実力者という王に過ぎなかった。北部、スコットランドにほど近いノーサンブリアには彼の弟トスティグがいたが、暴動から逃げ出す間にハロルドが勢力を及ばせると、これを奪還すべく戦いを挑んだ。このときノルウェー王ハラール・ハルドラーダはトスティグと結び、北の要所ヨークへ向けて思いきった侵攻を開始する。

 1066年9月28日。スタンフォードブリッジの戦いにおいて、ハロルドは大規模な白兵戦の末にスカンディナビアの脅威を退けることに成功した。そしてギヨームが上陸したのはその3日後である。ハロルドはすぐさま南へと取って返し、イングランド南西部、ヘイスティングスの北にあるカルデベックの丘を決戦の場に選んだ。そこは、両脇に渓谷があるために周辺に湿地がひろがる地形。攻めてくるならギョームはまっすぐに丘を目指してこなければならず、ハロルドが丘に陣取れば容易に見渡すことができる。ここでハウスカールズ(家中戦士)とセインを中心に配置し、大きな壁を作る。それは撃破するのが困難な鉄壁の守りであった。

 しかし、ハロルド軍でプロの兵士といえるのはこのハウスカールズとセインだけであり、残るは訓練もされていない民兵と、自国を守ろうという意識や王への忠誠心よりも、収穫が気になる農民の集団だった。しかも、北部の激戦直後に休む間もなく長い距離の移動を強いられ、たった今戦ったバイキングとは全く違う新手を相手にしなければならない。またハロルド軍は移動にのみ馬に騎乗しただけで、乗ったまま戦うという戦法を知らず、遠隔攻撃の手段ももたなかった。つまり、アングロサクソンの民兵はもとより、頼りにしているハウスカールズもセインも歩兵であった。
 北部での勝利はなるほど士気を高めたであろう。だが混乱したままのイングランドにあって、ハロルドは例えばギヨームが封建制や宗教を利用したような自軍の士気を長期にわたって高揚させる装置を持たなかった。この状況で無傷の貪欲なノルマン人を迎え撃つにあたり、ハロルドにしっかりした勝算があったとは思えない。逆に、このときの彼に出来たのは、一時的な士気の高揚を維持したまま、次の戦いへ素早く突入することだけだったのではないだろうか。

 ギョームはハロルドの迅速な行動に驚いたが、自分もすぐに軍をまとめ、ヘイスティングスを目指した。彼は周到に戦い方を選び、大きく3部隊を率いていた。それらは左翼のブルターニュ、中央はノルマン、右翼にフランドル、そしてそれぞれが個別の指揮官を有し、ノルマンはギヨーム自身が指揮する。さらにそれぞれの部隊に弓隊、歩兵隊、騎馬隊が備わっていて、白兵戦になる前に弓による遠隔攻撃で敵戦力を削ぎ、立った高さで切りまくるだけの敵歩兵に対して騎馬隊を差し向ける手筈になっていた。
 
 同年10月14日。戦闘は早朝から始まり丸一日を要した。その弓と騎馬隊による圧倒的な優位にもかかわらず、ギヨームは途中で苦戦した。しかし彼は兜をとって顔をさらすことで自分が生きていることを味方に示し、落ちかけた士気を取り戻した。
  そしてこの「士気」の違いが、最後には勝負を分けたと思われる。
 ハロルドははじめ矢で目を痛め、それから騎士によって殺された。リーダーが倒れると、ハロルドの部隊は殆どが戦意を喪失し、民兵などは散り散りに逃げ出した。ただ、誇り高きハウスカールズは、戦いの結果が決まった後になっても死ぬまで戦い抜いたという。

 ヘイスティングスの戦いの場所は、後にセンラックの丘と呼ばれるようになった。だが、当時は城砦などがあったわけではなく、ただ剥き出しの丘陵でしかなかった。下から上へとはいえ、そして旧式の弓とはいえ、頭上からの攻撃はハロルド配下に大ダメージを与え、士気をくじき、この戦いを決定付けたことは想像に難くない。けれども、この軍事的な時代遅れはハロルドの失敗というよりも、エドワード時代に解決すべき問題だったといえる。
 エドワードはノルマンの文化や人を持ちこんでノルマンによるイングランド支配の道筋を作りながら、例えばノルマンの騎馬による戦いを覚えさせる努力を怠った。そして後継者を決めずに世を去り、その器でなかったハロルドにいらぬ野心を抱かせた。その結果は、イングランドの史上唯一の、他国による完全な征服である。

 そして、幾分皮肉なことに、このあとアングロサクソンの社会は急速に発展していく。例えばノルマンは英語にフランス語の語彙を浸透させ、制度を押しつけた。それは軽蔑的な態度で、この島国の人々は何度も虐げられ叩きのめされたが、その度に嫌でも磨かれていった。バトル・オブ・ヘイスティングスとはそういう戦い――デーン人と混在するアングロサクソンの泥臭いイングランドが、抜け目なく、高慢で、新し物好きの、ヨーロッパで幅をきかす国に変貌する、その第一歩だったと思われる。



資料としては
トレヴェリアン『イギリス史1』みすず書房
あとは下記が参照したサイトです
The Reading Bayeux tapestry
BBC-history The battle of Hastings
2003/08/09
2007/05/24加筆修正

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