猛犬キーパーとムーアの道

 記憶を頼りに書くのだが、これは「嵐が丘」の話。
 特にブロンテに興味があったわけではないが、近くまで行ったのでそのままハワースを見てみることにした。季節は10月半ば。英国地図の中ほどにペニン山脈というのがあるが、ハワースはその麓の村である。大変な田舎で、ブロンテが有名でなければあの村に観光客相手の店があそこまで並ぶことなどまずありえなかった。
  一帯は起伏の続く丘陵地帯である。山だなと思うのは、その丘陵が途切れると崖で谷が広がっていて、奥の方にミニチュアのように集落が見えるとき。訛りがきついがやたら面倒見のいい地元の人が言うには、夏から9月半ばまでは一体が赤紫になるという。その正体はヘザーの花である。
 10月にはもうちらほらとしか花はなくて、しかし、枯れかかりの茶色の這いまわる風情が、かえってムーア(独特の荒野)の雰囲気を出しているようにも見える。花といって、それ以外では他になく、ドッグローズの蔓が古びたフェンスに巻き付いて、そのはずれでロビンが、近くに人がいるのに気にしないで囀っている。日差しはわりと暖かだが夕方には冷え込む感じである。そのフェンスの向こうは丘と荒野だけで何もない。

 翌日。風のない週末で、お昼持参で歩くには最高の天気だった。歩くこと2時間。途中、野生に近いような大型の羊に出会ったり、ちょっとした崖があったり、湿地のような平原があったりする。雲の流れが早いので、谷にミルクの雫のように点在する羊は、牧草地の緑を背景に度々太陽に照らされキラキラ光って見える。
 トップウィンズはさらにそこから斜面を根気良く歩き、16世紀の農家の廃屋を下に見ながら、古い時代の石垣を辿って登った先の、風が叩きつける丘陵の頂きにある。そうしてそこにある木は一本だけで、海岸の松よりも容赦なく捻じ曲がっている。そしてこれが「嵐が丘」のシンボル。空気は澄んだというより凛冽で、手軽にハイキングできる場所にありながら、ここの自然には近代化をよせつけない荒さが残る。

 エミリー・ブロンテは姉にも妹にも似ていない。一番似ているのは兄のブランウェルで、男の子らしい夢や古代の英雄への憧れとともに、一方で禁欲的な性格(そこは兄とは違うけど)が、書いた作品だけでなく肖像にも文字にも表れているように思える。そして妹アンの飼っていた犬は耳が羽のような可愛いスパニエル系なのに、エミリーの犬キーパーはマスチフの血が混じったごつい風貌の犬であった。その愛犬を連れて、エミリーはしょっちゅう、あのトップウィンズまでの道を歩き回ったらしい。だからこのムーアを知り尽くして書かれたのが『嵐が丘』。人物関係のストーリーにもかかわらず、「場」が支配しているのは当然である。

 ムーアから戻る道のひとつは小さな森のような墓地へ通じている。そこへさしかかったとき、かなり太った中年のアメリカンぽいご婦人に声をかけられた。
「すみません、この道は博物館へいくのですか」
「いえ、ムーアへ出ますけど」
 ご婦人、のけぞりそうに驚いて、「おや、まあ!」
「博物館はその角を左に曲がったら、目印があります」
「そうですか、どうも」行きながら「これは墓地かしらね。こんなに墓石が広いんじゃ、きっと大きな人だったんでしょうね」

 ブロンテ博物館は、時代が新しいだけに何でもきれいに残っていて、文献は勿論、家具や、姉妹が来た衣装まで見ることが出来るが、そのサイズときたら今の小学生より小さいくらい。博物館の目印にもある書き物机も膝上サイズ。教養ある家庭にありがちな古典の素養と周囲の自然の影響がうかがえるスケッチや覚書。きちんと並べられているけれども、それらは、極端に狭い世界にいて《書かずには居られなかった》想像力横溢の痕跡だ。

 ブランウェルは才能を認められることなく、失意のうちに放蕩生活をし、30歳で没した。一家は当時にしては生活に不自由はなく、姉妹でベルギーに留学するが、この兄の訃報に接しエミリーは育った寒村に逆戻り。その後エミリーが書き溜めていた詩を姉のシャーロットが発見したのがきっかけで、3姉妹は偽名で詩集を出すことになる(1846年)。しかしなけなしのお金で出した詩集は当時2部しか売れなかった。そしてアンは29歳、エミリーは30歳で没。シャーロットだけが結婚もしたが39歳で1855年に没した。

 きれいな真鍮の首輪の持主であったキーパーは、エミリーが病気で死んだとき、その部屋の前から頑として動かなかったという。泊まったB&Bのおばさんが、「ムーアでエミリーの幽霊に出会うという小説がある」と言っていたが、別の話題で盛りあがって題を聞きそびれた。それにしても、もしエミリーとキーパーの幽霊に出会ったら、怖いどころか、喜んでしまいそうな気がする。

2002/10/31
2007/5/24 加筆修正。

作品以外で手軽にブロンテを知る1冊↓
フィリス・ベントリー『ブロンテ姉妹とその世界』新潮文庫

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