夜歩く 


IT WALKS BY NIGHT

1930


ストーリー;
舞台は初夏のパリ。新婚の公爵が、ナイトクラブの一室で何者かに首を切られて死亡した。彼の花嫁には精神異常の元夫がつきまとい、公爵の命を貰うという予告状を寄越していたので、警察が警備していた目と鼻の先での事件であった。
冷血で猟奇的な犯人を追うのは、容赦無い毒舌が冴え渡るアンリ・バンコラン。

◆「諸君はシャルコウの出した本の『猛獣狩猟家伝』を覚えてませんかね?山刀でアメリカライオンに襲いかかれる人間は、この世には二人しかいないと書いているが、その一人は、アメリカの今は亡きドーズヴェルト氏で、もう一人はこの若きサリニー公爵だった…」

◆感想;文句たらたら青年
バンコランと父親が親友であるという、若い主人公が語り手。彼はバンコランに可愛がられているか、ぼけなすか田吾作と思われているか、微妙なところである。でも結局、バンコランは彼を信用しており、彼はバンコランを敬愛しており、その手並みにぐうの音も出ない。また、彼に文句を独白させる人物はバンコランだけではない。
語り手の主観が大幅に雰囲気に影響していて、凄惨な事件は、謎めいた月の光や古いオルゴールの音やリラの香りの向こうに見える悪夢のようである。


◆トリックについて:役立たずな博士

犯人の心理を読むために助言を頼まれた博士は、何を言ってもバンコランに否定される。浴室で見た鏝、ナイトクラブの『不思議の国のアリス』という、不釣合いすぎてギョッとする組み合わせ。どちらも事件の本質を暗示している。
しかしこのデビュー作を読むと、カーはポーがとても好きなんだろうなと思う。

ややネタバレ注意

◆密室を解明する鍵は嘘と恋愛沙汰のもつれと間取りのささいな死角。途中に戯曲の草稿が出てきて引用されるが、事件の全容はかなり芝居じみている。取りかかった犯人はそれでも完璧なつもりで、むしろそのへまによってことは複雑に見えているらしい。
バンコランは一見非情な仕事人間だが、誰かの死について真実を見つけるために懸命に職務を果たしており、傲慢だったり、謎を面白がったりしない真面目なフランス人である。背景描写がリアルなだけでなく、フランス人気質への言及もしており、別の意味でお気に入りになった。

2002/Dec.――創元推理文庫