私的『テンペスト』論

この劇を最初に読んだのは12歳のとき。
で、面白くなかったのですね(笑)
今なぜお気に入りかは本当はよく分からなくて、何事か身辺にあって、
それで読み返すたびに好きな部分が増えていくのです。
いわば小春日和のような良さがあるのかも知れません。
面白さというなら、ストーリーより構造そのものにある気がします。



孤島:

嵐のあと流れ着く孤島が舞台であるという設定は、冒険ものの雰囲気がある。けれどもそこでの対話はまるで宮廷内と変わらないし、孤島でのサバイバルを意識した様子もなくダラダラと散策がはじまる。
今でこそ魔力でもって支配者になり何でも自由に操るが、そこは追放されて命からがら辿りついた、荒れた土地であることが最初に語られている。
そういうところに住んで12年間、復讐のチャンスを窺うわけである….
この舞台に対して人物が余りに現世的で気に入らなかった。何度か読んで舞台も観て、今の感想としては「たしかに閉じ込めるには最適」。
南の島の解放感などは皆無であり、それゆえ、モデルはマン島であるという説にはおおいに納得。


プロスペロー:

復讐のために魔術を用いて敵を手中におさめ、最後には赦してやる。
結局、自己満足のための復讐だったのか。
プロスペローの要領のよさと、権力者の癖のようなものは 精霊を使うときには勿論、娘をコントロールするときにも発揮される。
(セバスチャンらがアロンゾーを亡き者にしようとした事実を知るという政治的切り札も、ミラノまでしっかり持参するつもりらしい)
用意周到で気難しい学者気質と、王侯らしい自尊心が同居している。

エアリエル:

主人の言うことをよく聞き、見事に術を使いこなす、華奢で儚げで整然とした精霊。魔法の場面の美しさは、エアリエルにより強調される。だが、このキャラクタは主人との関係を契約だと割りきっており、不満も言い、同情し、仕事を褒めてもらいたがる。
人間ぽさは半分で、残りの半分はエアリエル自身がその魔法のように優美。それで各場面も自画自賛にならずに感じがいい。

キャリバン:

エアリエルから繊細さと気品を削ぎとって、もっと詩的にすると彼になるのではないかと思う。悪者で醜悪で愚鈍でさえあるが、どうにも憎めない。島の精霊の音楽や宝物の夢についての台詞が彼によって語られると、善良でみかけの美しい人物が言うよりももっとそのものが引き立って、リアルで純粋な美しさが与えられる。彼の台詞は大変気に入っている。

ゴンザーロー:

頭は働くし慈悲深いようだが、理想に溺れるきらいがあって、それは最初の水夫長の台詞と対称的に描かれてここが一番興味深い。しかもその傾向は、謀反人コンビにからかわれるユートピア構想として暫く続き、今度は国王に「そんな話は何にもならない」と言われる。
善良で教養もある宮廷人の典型かも知れない。

最後の劇としての想像力:

コールリッジの『シェイクスピア論』に書かれたこの劇についてのページはそれほど多いわけではない。しかし、初期の作品がより詩に近いのに比べて、この作品はとにかく想像力に訴える、と論じているのは興味深い。
特にエアリエルについての部分はそれ自体、詩のようだから引用してみる。

「詩人は、一方彼に理性の能力や便宜を与えていながら、彼から積極的にではなく、消極的に、人間性質を奪っている。彼は空中に住み、空中から本来の性質を享け、空中に活動している。一切彼の色彩や性質は、虹と空から得られたものであるかのように見える。エアリエルには、夜明けか日暮れ頃には実際あるのだと思えないようなものは何ひとつない。したがってエアリエルの持っている凡てのものは最も美しい外界の自然の情景から我々の心が受けることの出来る喜びと同じものである」(岩波文庫。ただし一部改変)

魔法、妖精、という、実際にはあり得ないものへの想像力が、遠いところの無人島ではなく、手の届く自然に溢れているということは、この劇から得られるちょっとした驚きである。と同時に、魔法としての想像力を補強する《記憶》というものが慎重に、自然に、精緻な筆で呈示されている。

2002初出・2008.Jan.加筆修正 

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